ビール大手 ハイネケンの社会実験 分断された世界に架け橋を…。

やたらと感動したとか、良かったといった表面的なメッセージにあふれているコメント欄なんだけど、そうは思わない自分はひねくれているのだろうか?

そんな感情を認識出来るビール大手 ハイネケンの社会実験 を用いたCMですね。

人の考えは個々人で違うもの。


それを対話や考えをぶつけ合うことで、理解し共感し譲り合うというのがコミュニケーションなんだと思う。

面白い手法だし、個人は確かに一緒に作業を行い、そのパートナーの仕事や所作から、信頼を寄せてどんな考えを持っていても仲良くはなることは出来ると思う。
これはすべてではなくて、個々人の考えをまったく翻すことにはつながり得ないのだと思う。

たしかに対話をと叫んで、理解をすることは対話からはじまるなんてことを言う人もいるし、それでわかり合えることもある。

でも、それは実際としては個人対個人の場合だけになってくると思う。

集団対集団もしくは集団対個人になってくると、単に対話をしたところで理解が進み双方がわかり合えると言うことは幻想になってしまう。

なぜなら、集団になると、その集団ないでも同じ方向の意見であったとしても、少しづつのずれというものもあるし、総体としての統一見解と個人の見解も変わってくると思う。

それは間違っていると言うことでも、正しいと言うことでもなく、違っているのが当たり前だからだ。

そこ違っているのが当たり前という考えを持っての対話であれば、前述している個人対個人のコミュニケーションもより深いものになるわけだし、そうしたずれや、違うという前提に立っての行動でも、当たり前と受け入れられるようになる。

だから、一方的に対話をしたいと言ってみても、その投げかけを受け取ることを相手がしなかった時点で、集団対集団の対話は成立しない。

そこを無理に対話をと言って呼びかけてみても、ボタンの掛け違いは大きくなるばかりで、そのずれは直すことは出来ないでしょう。

これを是正するには、ある意味、力を持って対話のテーブルに着かせるというのも一つのやり方ではある。

この対話で解決したい目的が攻撃的なものであったり秩序を乱したりするような行動をはらんでいる場合は特にそうではないだろうか?

また、放置してはその問題が相手側によって促進されてしまう場合も多々あるし、その種の問題というものは対話によって解決されるものでもない。

だから、一方的な暴力や、一過性の暴発というものも出てくるし、泣き叫んで平和を訴えても相手は受け入れないことも多い。

であれば、集団をより大きな集団として、団結してその相違を持って相手をテーブルに着かせる。

その手段が攻撃的なものになるのはある種当たり前なんだと思う。

ある意味、意見の違う相手の考えを変えさせると言う考え自体がおこがましいわけで、それは他者が自分を守るために行っている行動であることが多い。

そうした攻撃を言葉やコミュニケーションだけで変えさせることは出来ないので、その中心人物を排除するという考えは決して間違っている行動とも言えないのではないだろうか?

なんてことを取り留めもなく考えてしまった。

一つの事例として考えると

免許の更新時に最後にさだまさしの償いという歌を聴かせられるのだけど、その歌詞を聴くたびになんとなく思うことがある。

事故を起こして人を殺してしまった登場人物が償いとしてその相手の家族に送金を続けて許しを請うている。

あるとき、もう送金をやめてくれ、送金とメッセージを受け取ると死んだ個人を思い出すのがつらいので、送金をやめてくれ。

この返事をもらい、登場人物は返事をもらったことがタダうれしく、許されたのだろうか?といったことを言っている。

許されるはずはない。

相手は、その送金を単に呪いとして受け取っていたのだから。

送金されてくるたびに、故人を思い出しつらい。

その場にとどまって忘れずに変わらずに、憎しみや悲しみをぶつけ続けると言うことも精神的にきつい。

どんなことをしてもなくした人間は帰ってこないのと同時に、そのくらいの行為で失った信頼は帰ってこない。

相手にも言い分はあるし、自分にも言い分はある。

人はそれぞれ違うのだ。

一緒の方がどうかしている。

手を取り合って、皆が同じ方向を向けたらいいが、それでも、意見の違いというものは失われてはならないと思う。

だって、一人一人違うのが人間で、それが素晴らしいと思うから。

なんてことを取り留めもなく合わせて考えてしまった動画です。

しかし、これでビール飲みたくなるのかな?メセナ活動なのかな?



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