本日は国際女性デーらしい。いわゆるウーマンリブってやつかな?
YouTubeやNetFlixでプロモーションしている。
国際女性デーって何?と当然思うわけで
国際女性デーは、記念日の一つである。毎年3月8日。国際婦人デー、国際女性の日などとも呼ばれる。
リベラル系の人は基本、男女同権ということで女性と男性の権利は同等であり職場でもどんな状況でもすべて平等であるべきって思っているのだろう。
確かに、その昔は女性が付けない職種は無数にあり選択の幅は少なかったのかも知れない。
現在は、そんな状況でもなく「機会」は平等に与えられている。
選ぶ側としても別に貴賤なく、一定の基準を提示してその範囲ないにいる人には機会を提供しているわけ。
その基準は学業であったり来歴であったり、これが出来て欲しいと言う事。
だから、女性も男性も平等に機会があればその先には、後は選択する側がどうした人を選ぶだけという話なわけです。
それをリベラル系の人は、すべてを平等にしろ、障壁があったり、基準があるのはおかしい、すべての人にはすべて同じ権利があり、機会があるべきだ~って話をします。
私としては、これに大いに違和感があります。
機会の平等も、すべて何も障壁がなく、非対称性を持って選択の機会を提示するとなると、応募者を選ぶ側のコストが無制限になってしまいます。
また、制限を設けない機会の平等というモノを提供してしまう事でホントにその職種ないし仕事に応募すべき優秀な人の機会を奪う事にもなりかねないという話の気もする。
だから、学力や個々人の持っている能力で障壁を設けるわけだし、男性しか出来ない仕事もあるし女性しか出来ない仕事というものもあるわけだし。
だから、男女雇用機会均等法という法律には機会という文言が入っているわけだし、この機会については応募は自由だけど、この範囲の人に限りますという話。
応募する機会は均等(平等)に提供しているわけだけど、合格対象者にはこの人を希望すると言う風に範囲を提供する。
コレは、すごく平等な気がする。
だって、自由には責任が伴うのと同じように平等にもそれを行使するためには責任が必要なんだと思う。
責任とは、頑張ってその応募要項に沿う形に学力ないし能力を身につける事で、初めてその責任を果たしたと言う話になる。
事ほど左様に、権利や自由を求める裏側には、その権益を行使するための責任があるのだと思います。
なんて事を考えてしまった国際女性デーという話でした。